バスの歴史

バスの始まり(明治~大正時代)

1903年(明治36年)9月20日、京都の堀川中立売~七条駅、堀川中立売~祇園間で、二井商会による乗合自動車の運行が始まりました。現在は「バスの日」として親しまれているこの日が、日本のバス事業の始まりだといわれています。

 

大正時代になると自動車の信頼性も向上し、全国的にバス事業の揺籃期(ようらんき)となりました。その頃は、多くが数人乗りの小さな乗用車を使っていたそうです。

大正12年に発生した関東大震災の影響で路面電車が大きな被害を受けた東京では、応急処置として800台余りのバスを導入し、運行を開始しました。また、2011年(平成22年)3月11日に発生した東日本大震災でも災害時の応急対応車両として、バスは欠かせない交通手段の一つとして再認識されました。

発展し続けるバス事業(大正~昭和初期)

大正時代に全国で発展したバス事業は、昭和に入ってもその勢いはとどまることはありませんでした。やがては、事業者同士が合併や統合を繰り返しながら、地域の主要な交通手段として、さらに発展していきました。

 

昭和初期になると、京都の四条大宮~西大路四条間で初めてトロリーバスの運行が開始されました。昭和10年代には国産車も民間事業者に採用されるようになりました。

太平洋戦争の時代

大正から昭和にかけて発展し続けたバス事業は、日中戦争の勃発以降、苦難の時代へと突入していきます。燃料事情の悪化とともに、木炭や薪などの代用燃料車への転換を余儀なくされ、太平洋戦争を経て昭和24年頃までには、燃料の確保が業界の最重要課題となりました。

 

終戦後は、燃料や部品などが枯渇するなか、戦地からの引揚者で乗客は増える一方、軍用車両の払い下げ車両を活用して、バス事業が行われました。

戦後の復興期

戦後の輸送需要拡大を迎え、バス業界は国産ディーゼルバスの普及と大型化が進みました。昭和26年には、大阪市で日本初のワンマンカーが登場しました。都市の拡大に伴い、運行時間が延長されるのとは裏腹に、女性車掌の就労時間に制約が生じ、ワンマンカーの普及に拍車をかけました。

 

昭和30年代に入ると、さらにバス事業は発展し、地方都市の駅でも必ずバスがあるという黄金時代を迎えました。

基幹交通機関としての展開(昭和50年代)

昭和50年代に入ると、地域社会や利用者ニーズに合わせたサービスの改善が進みました。

 

遠方からでも行先がわかる「大型行先表示」もこの頃から普及し始めました。

 

路線バスにおいては、大阪市交通局がメインエンジン直結式クーラーを空調メーカーと共同開発したほか、停留所名表示器などによる情報提供、複数系統の接近表示ができるバスロケなど、様々なシステムが進化していきました。

 

そのほか、市街地の基幹輸送機関に位置付けた「基幹バス」の登場や、コンピュータによる総合管理システムの導入が東京や新潟で始まり、公共交通機関としての重要な役割をバスが担うこととなりまいた。

さらなるサービスの向上を目指して(昭和60年代/平成時代)

昭和62年に国鉄の分割・民営化とともに、国鉄バスも6つの鉄道会社に運行エリアを分割し、さらに1年後にはジェイアールバスとして分離独立し、高速・都市間輸送にシフトしていくこととなりました。国鉄の解体によって、鉄道事業の地方交通線は、自治体を中心としたへと転換が図られました。

 

昭和60年代の都市部は、都市圏の人口の郊外への広がりとともに、深夜運行サービスも拡大しました。このほか、夜行高速バスも急激に路線が拡大され、幅広い利用層の支持を受けることとなりました。

公共性が高まる時代(平成時代)

バスの公共性がさらに高まった平成初頭には、既存のバスでは対応しにくい狭隘(きょうあい)地域や小規模需要を対象に、行政が運行に係る新しいバスサービス「コミュニティバス」が登場しました。

 

1997年(平成9年)に運輸省、建設省、警察庁の3省庁が連携して「オムニバスタウン事業」がスタートしました。指定都市は、バスを活用した街づくりを目指して、人や環境にやさしいバスの導入やコミュニティバスの整備、バスレーンなど走行環境の整備が重点的に進められました。

 

同じく1997年(平成9年)には、環境と人にやさしいバスとして、乗降性に優れた国産のノンステップバスが登場し、さらなる利用性向上のための取組が進められました。